ローマ2章

2:1 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

 一章では、神を知ろうとしない人が良くない思いに引き渡されたことが示されています。人は、神の前には、不義を行う者となったのです。

 そのことを踏まえ、神の前に自分を正しいとしている人について言及しています。その対象は、ユダヤ人です。十七節に「あなたが自らユダヤ人と称し」と記されています。

 たとえばパリサイ人のように正しい者として振る舞い、罪を犯している人を裁くような人が神の前に正しいとされるのでしょうか。パウロは、非常に厳しい言葉でそれを否定しています。むしろ他の人を裁く人は、自分の罪について弁解の余地はないのです。知らないで罪を犯した人よりももっと重大な罪があることが指摘されています。

 それは、他人を裁くということは、他人のなしている何かの行為が罪であることを明確に認識している訳です。それと同じことをしている自分が、罪とは認識していませんでしたと言うことはできないのです。

 人はしばしば他人の罪については厳しく裁きます。しかし、自分は、同じ罪を犯しているのです。自分を省みると自分のうちにも同じ罪があるのです。人は自分に寛容ですから、自分を裁くということはあまりしませんが、自分の罪は明らかなのです。

2:2 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。

 人の前に自分を正しいとしている者が正しいとされるのではなく、神の前には、そのような人も同じように裁かれるのであって、神の裁きは正しいのです。真理によってどのように御心を行うべきかが示されています。それに背くならば、同じように裁かれるのです。

 なお、「真理」という言葉を用いているのは、人を裁く人が、その人の持つ判断基準としての教えや考えと対比されています。それらは、必ずしも真理ではないのです。

2:3 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。

2:4 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

 そして、そのようなことをしている人に対して、悔い改めを勧めています。神の前に裁かれることは明らかです。今は、神の慈愛によって悔い改めの機会が備えられているので、今この時に悔い改めるように迫っています。

・「悔い改め」→考えを変える。方向転換。悔いる意味はない。

2:5 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。

 そして、考えを変えないことに対して、それは、神の怒りを積み上げていることを示し、強い警告を与えています。

 自分は正しい者だと思っており、他の人に対して批判的である人は、自分を正しいとし、考えを変えないことがありません。そして、神の裁きの恐ろしさを考えようともしません。しかし、このような人は、神の清さに対する認識が甘いのであって、自分が神の前には、非常な罪人であることを知らないのです。

2:6 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

2:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、

2:8 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

 そして、次に神の裁きについて示しました。

 神は、その人の行いに応じて報いを与えれます。これは、誤解のないために触れておくならば、信仰によって義とされることと対比して行いによっては義とされないという教えとは矛盾しません。これは、全く別の観点から記されています。この行いというのは、信仰による行動のことです。

 「忍耐をもって善を行う」ことは、信仰によって救われた者がなす行為のことです。信仰によらずに、正しいと見えることを行ったとしても、神の前には、死んでいます。神を認めない人が神の前に正しい行為をしたとしても、神が受け入れるはずがありません。ですから、この善行というのは、信仰によって救われた者のなす良い行いをさしています。「善行」という言い方をしているのは、クリスチャンが良い行いに歩むのは当然のこととして示されており、たといクリスチャンであっても、良い行いをしなければ報いはないこともこの言葉には含められています。

 そして、信者が「栄光と誉れと不滅のものとを求める」ことに対して、永遠の命が与えられます。これは神様から与えられる報いのことを言っています。

 そして、「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者」は、信仰によらない人のなすことであるのです。そのような者に対しては、神の怒りが下るのです。もちろんクリスチャンであっても、このようなことをなす者に対しては、報いは取り上げられてしまいます。それと共に、クリスチャンと言いながら、このようなことをしている者が、本当に信仰を持っているか吟味しなければなりません。その人が本当の信仰を持っている者ではない場合もあるのです。

2:9 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、

2:10 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

 「悪を行う者」は、信仰によらない人のことです。「善を行う者」は、信仰によって歩む者のことです。

 善を行う者は、栄光と誉と完全さが与えられます。これは、キリストの裁きを受け、永遠の報いとして栄光と誉と完全さが与えられることを言っています。善を行うことは、神様の御心を行うことです。今日は、信仰により、御霊によって実現することであり、信仰に応えて、その人のうちにあって働くキリストによります。

 対比して、悪を行う者には、苦難と苦悩が下ります。これは、キリストによる地上の裁きの時のことです。一人ひとりの人間に関しては、その善悪によって、人生に苦難と苦悩があるかは決まらないのです。神様のお取り扱いによるのです。

使徒

17:31 なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」

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 ユダヤ人とギリシア人が対比されています。この場合、ギリシア人は、異邦人を代表するものとして取り上げられています。

・「平和」→御心を行うことでもたらされる完全さ。

2:11 神にはえこひいきがないからです。

 なぜならば、それは、全ての人に適用されることで、神はえこひいきなさらないからです。これは厳粛なことです。この地上をどのように生きるかによって、私たちの永遠が決定されるのです。

 えこひいきは、特にユダヤ人を特別扱いするという意味です。九節以降、ユダヤ人をはじめと記されていて、この章は、ユダヤ人を対象として記されています。

2:12 律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。

2:13 なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。

 そして、この裁きは、律法を持っているか否かにはよらず、罪を犯したかどうかが問われるのです。律法を聞く者とは、ユダヤ人のことです。異邦人は、聞く機会は滅多にありません。そのユダヤ人であっても、律法を聞くことで正しいとされるのではなく、律法を行うことで義と認められるのです。

 なお、肉によっては律法を行うことができず、信仰により、御霊によって行うことができることは、後の議論になりますが、律法を行うことは、神の御心を行うことであるのです。それは、信仰者に求められていることです。

2:14 (なぜならば)律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

2:15 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

 律法を持たない異邦人が、律法を教えられることなく、律法の命じることを行う場合は、彼らの持つ「良心」が彼らの律法なのです。良心は、その人の持つ教えであり、行動の基準となるものです。律法の行いは、彼らの心に記されているのです。「彼らの良心が証ししている彼らの心に記されているのです。」その教えは、良心に記されているのです。また、心の中には、様々な考えが浮かびますが、良心に照らして互いに責め合ったり、弁明しあったりさえしているのです。

2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。

 そして、律法を行なったかどうかが裁かれる時がきます。すなわち、御霊により、御心を行なったかどうかが評価される時が来るのです。二十九節の記述のように、御霊によって御心を行なったことが評価されることであることがわかります。そして、神からの称賛が届くのです。

 「私の福音によれば」と記しています。パウロが考え出した福音という意味ではありません。使徒としてのパウロに啓示された福音です。ここには、たとい別の考えを持つ者がいたとしても、自分に啓示された福音によれば、こうだと言ったのです。神の正しい啓示は、これだということを強調しているのです。

2:17 あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、

2:18 みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、

2:19 20 また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、

2:20 前節と合節

2:21 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

2:23 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。

2:24 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。

 二章の内容が「あなたが自らユダヤ人と称し」と記されているように、ユダヤ人を対象に語られていることが明確にされています。

 また、論点は、さらに明確になっています。律法持っているユダヤ人が正しい者であるかという点です。実は、律法を持ち真理を知っている彼らが、律法にそむくことをしているのです。律法持っているユダヤ人は、真理を知っているという点で非常に優れています。彼らは神を知り誇っていました。また、御心を知り、知識と真理を知っていました。それは、聖書の言葉によって知っていたのです。ですから、彼らは無知な者たちに真理を教えることができました。

 しかし、彼らは、自分自身がその教えの中に生きていませんでした。「自分自身を教えないのですか。」と記されていますが、真理を知らないのではなく、知識を持っていながら、御言葉に従わないので、自分自身を教えないのですかと問うているのです。具体例として、盗みをし、姦淫を犯しているのです。偶像を忌み嫌いながら、真の神に対する尊敬がなく、神殿のものを掠めます。彼らは、律法を誇りとしていますが、律法を守らず、神を侮っています。

 ユダヤ人のしていることは、異邦人の中でもその証しを損ない、神の御名を汚しているのです。

2:25 もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

 ここで割礼が取り上げられているのは、割礼は、神の前に全き者として歩むことの表明であるからです。

創世記

17:1 さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

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 割礼は、契約のしるしでした。その契約は、アブラハムとその子孫が神の前に全き者として歩むこと、それに対して、神様は、アブラハムを多くの国民の父とし、その子孫は、約束の地を受け継ぐというものです。ですから、割礼を受けていることは、神の前に全き者として歩むことを表明しているのです。

 それにもかかわらず、ユダヤ人が律法を守らないとしたら、割礼の意味はないのです。

2:26 ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。

2:27 からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

 割礼は、神の御心にかなう歩みをすることの表明であり、しるしが大事なのではなく、しるしによって表される本質を守ることが大事なのです。具体的には、律法を守ることが大事なのであって、割礼は、それを守ることの表明であり、しるしなのです。しるしがあっても守らないなら意味はないし、しるしがなくても守るなら価値があります。

 そして、割礼がなく律法を守るものは、割礼を受けている者を裁くことになります。

2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。

2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

 そして、割礼を受けていることが神の前に価値あるのではなく、割礼の意味している心の割礼こそ価値あるのです。割礼は肉を切り捨てることを表しています。肉に従って歩むのではなく、御霊によって自分に死に、御霊によって生きることこそ価値あることなのです。それは、イエス・キリストを信じて罪赦された者がなす新しい歩みです。心の割礼を受けていることは、御霊による歩みであり、神からの誉れを受けるのです。その称賛は、人からではありません。神から来ます。人は、人の称賛を求めます。ユダヤ人の誇りも、そこにありました。しかし、形だけのユダヤ人ではなく、神の御心を行う者こそ、神から称賛されるのです。